大型類人猿を含め子どもの人工保育は、その後の発達に看過できない不可逆的な障害をもたらすことが繰り返し指摘されてきました。特に、社会性の発達の障害は、その個体が成体になった際の社会不適応、交尾不能、育児拒否といった「負のスパイラル」を極めて高い確率で引き起こします。近年は、やむを得ず母子分離を行っても積極的に母親に戻す試みが奨励され、数多くの成功例が報告されているのは周知のところです。ただし、このような事例は母親が抱かなかったなどの「育児放棄」がすべてであり、母親が抱いている限りは、母親による育児にすべてをゆだねるべきであると考えます。国際霊長類学会が提示する霊長類飼育に関する国際ガイドラインにおいて、母子の命の危険がない限り人工保育はおこなうべきではないこと、仮に人工保育をおこなわざるを得なくなったとしても可能な限り早期に子どもを母親に戻すことが勧告されています。アメリカ動物園水族館協会が発行するチンパンジー飼育マニュアルにおいても同様のことが定められており、この飼育マニュアルの正式な日本語翻訳版がアメリカ動物園水族館協会のウェブサイトに掲載されています。
SAGAは、Support for African/Asian Great Apes (アフリカ・アジアに生きる大型類人猿を支援する集い) の略称です。SAGAは1998年に創設され、主として、チンパンジー、ゴリラ、オランウータンの3属4種に分類される大型類人猿の現状と将来について、研究・飼育・自然保護という立場から考えるために集まった非営利団体です。動物愛護法や種の保存法の別表において、チンパンジー、ゴリラ、オランウータンはヒト科としてリストにあげられています。ヒトも含めてヒト科4属(ヒト科ヒト属、ヒト科チンパンジー属、ヒト科ゴリラ属、ヒト科オランウータン属)であるという考え方が定着してきました。SAGAは、チンパンジー研究者の松沢哲郎・京都大学霊長類研究所教授(現・国際霊長類学会会長)を中心として、ゴリラ研究者の山極寿一教授(現・京都大学総長、元・国際霊長類学会会長、元・日本霊長類学会会長)とともに設立された団体であり、ヒト科としての大型類人猿の研究において国際的に第一線で活躍する国内外の研究者を網羅して、以下の提言を提示しました。 1) 野生の大型類人猿とその生息域を保全する。 2) 飼育下の大型類人猿の「生活の質(QOL)」を向上させる。 3) 大型類人猿を侵襲的な研究の対象にせず、非侵襲的な方法によって人間理解を深める研究を推進する。 この原則の実現に向けて私たちは活動を続け、これに反するような誤った大型類人猿の利用については時に応じて意見を表明してきました。特に、TVバラエティ等における大型類人猿の不適切な利用等については、これまで、2006年12月4日、2007年10月11日、2012年11月19日の3回にわたって、要望書や声明を発してきました。
今回、これまでもチンパンジーの不適切な利用に対してSAGAから改善を要望してきた阿蘇カドリー・ドミニオン(熊本県阿蘇市、上山栄二園長)において、ポコという名の女性のチンパンジーが2015年9月22日に子どもを出産しました。その様子は10月10日に日本テレビ系列の「天才!志村どうぶつ園」において放送されました。その後も放送され続けています。その中で、園のスタッフが母親に抱かれているこの新生児を人工保育に移行するシーンが映し出されていました。チンパンジーの専門家のアドバイスを受けつつ行われたように見ることもできますが、私たちチンパンジーを日々研究し飼育する者たちにとって、今回の人工保育への移行は強い疑念を感じさせるものです。
スタッフたちが、人工保育を選択した理由は、
1)体が小さいように見える
2)しがみつく力が弱いように見える
3)泣き声がしなくなった
でした。
上記のいずれの点についても、強い疑念を感じざるを得ません。第1に、人工保育への移行のシーンにおいて体重を測るシーンが出てきますが、そのシーンだけからでは正確な体重は分からないようになっています。そのシーンにおける発言によると、体重は1500グラムとのことです。これは、これまでのチンパンジーの出産時のデータから、チンパンジーの赤ちゃんとして正常の範囲内です。チンパンジーの赤ちゃんも、人間の赤ちゃんの場合と同様、出生後数日間は体重が減少します。つまり、人間の赤ちゃんで新生児の「生理的体重減少」があるのと同じ現象がチンパンジーの新生児でも起こります。仮に出生後4日目の人工保育移行シーンでの発言にあった1500グラムという体重が正しかったとすると、完全に健康なチンパンジーの赤ちゃんの体重の範囲内です。第2に、赤ちゃんの足がだらんと下がってお母さんにしがみついていないことをもって、赤ちゃんが弱っているかのような印象を与える発言があります。これは正しくありません。チンパンジーの赤ちゃんの運動能力は未熟な状態で生まれてくるため、完全に自力で母親にしがみつくことはできません。また、足で把握する力は手に比べて弱く、チンパンジーの赤ちゃんが足で母親にしがみついていないことは、普通の状態であって異常ではありません。第3に、泣き声がしなくなった、泣き声が小さくなったことをもって、赤ちゃんが弱っているかのような印象を与える発言があります。これも正しくありません。チンパンジーの赤ちゃんは、人間の赤ちゃんのように多様な場面で泣き声をあげることはありません。チンパンジーの赤ちゃんが泣き声をあげるのは、主に母親から離されたときです。チンパンジーの赤ちゃんが母親に抱かれている限り、泣き声をあげることはほとんどありません。泣き声をあげないことは、赤ちゃんがリラックスして、正常な状態にあることを意味します。さらに、人工保育に移行するシーンにおいて、赤ちゃんは大きな泣き声をあげていました。このことは、赤ちゃんが大きな泣き声を出すだけの健康な状態にあることを示しています。上記のように、今回の事例について、赤ちゃんを母親から分離して人工保育することを正当化できる理由を見て取ることはできません。上記に掲げた3点のいずれにおいても誤った解釈がなされています。たとえ獣医学的な観点から赤ちゃんを一時的に取り上げたとしても、その後になすべきは、赤ちゃんが健康である限り一刻も早く本来の母親のもとに戻すことです。
大型類人猿情報ネットワーク(Great Ape Information Network: GAIN)と称する、SAGAの活動とも関わりのある事業(文部科学省のナショナルバイオリソースプロジェクト「情報整備プログラム」の一環)において、国内の類人猿の戸籍簿と来歴情報の整理がなされています。今回のチンパンジーの赤ちゃん(プリン)の母親のポコ(GAIN識別番号0641)は、父トニーと母ジェーンの間に生まれ、母ジェーンに育てられながら、チンパンジー集団の中で子ども時代を過ごしました。もともとミヨという名前でしたがポコに改名しています。ポコはその成長の過程でチンパンジーとしての社会性を身に付けており、それがゆえに今回の出産において子育て行動が可能であったと考えられます。一方、プリンの父親のパン(GAIN識別番号0642)は、オランダ生まれの男性のアンチャンと野生由来の女性のヨウの間に生まれ、ヨウイチと名づけられましたが、のちに改名してパンとなっています。人工保育で育ったのちに、ショーに使われるようになりました。
私たちは、今回の母子分離-人工保育を強く憂慮しており、不適切な理由によってなされたものであると考えます。母親が抱いているチンパンジーの赤ちゃんを母親から引き離すことは許されません。出生から2か月が経ちました。10月31日放送回のテロップによると、体重は2200グラムに増加しているとのことです。赤ちゃんは健康な状態であると考えられますので、一刻も早くこの赤ちゃんを母親に戻すべきです。
早急に善処していただくよう強く要望いたします。
2015年11月24日
SAGA(アフリカ・アジアに生きる大型類人猿を支援する集い)世話人一同
Comments